旧三級品

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私は二十歳過ぎて喫煙者になったが、吸い始めた理由は二つ。1つは持病に効果があるため。もう一つは憧れ。

 

※当記事は喫煙を推奨するものではありません。未成年者の喫煙は法律で禁止されています。

 

ゴールデンバット(以下、バット)が好きでよく嗜んでいる。友人に勧めると大体不味いと言われるが。ジジイ煙草なのは間違いない。わかばは不味い。

 

昨今、喫煙者の肩身が狭くなっているが、あれはあれでいい。只でさえ高額な税率がかかっているが、それでも酔狂な嗜好品として贅沢に味わう価値が煙草にはある。値段が上がるならそれだけの価値があるということだ。

 

既に禁煙宣言をして何度も失敗している。まだ諦めずにトライするつもりだ。それと、煙草から上手く距離を開けることが出来たとしても、稀に嗜むようなことはしたい。煙草はやはり贅沢だと思う。

 

文豪煙草とバットは文字通りの意味だ。夜な夜なKindle片手に吹かしながら太宰治を読むのは非常に楽しい。カフカの「変身」を読んでた際にもバットを吸っていたのだが、この時思ったのは「バットと文学ってなかなかピシャリと合うな」と。不思議と集中出来る。ブログ記事も何度か吸いながら書いたが、それはそれはペンも走る。「喫煙所から生まれるアイデア」とか「煙草を吸わない奴にいい文章は書けない」というのは好きではないが、吸いながら筆をとったり、活字を読んだりするのは非常に楽しい。これは何故なのかと考えた。そして気づいた。

 

銘柄や吸い方、味や味わい方、マナーやモラル、香りや臭さ、コミュニケーションとしての煙草とかライターとかマッチとかジッポのそれぞれの味の違いとか。本当に奥深い。まだまだ知らないことが沢山ある。そうだ。煙草は学問だ。娯楽でしかないと言われるだろうが、私は学問だと思う。知的好奇心で私は吸っているなと。だから私は煙草に「美味しい」というより「楽しい」という思いを抱いているんだなと気がついた。

 

太宰治が愛煙家だったのは存外「楽しみ」だったからと思えば彼の文章がまた最近面白く思える。

 

両切りだった頃のバットを一度でいいから味わってみたい。なんて思いながら両切りのショッピをニタニタしながら吹かしている。